北アルプス山系の南端に位置する標高3,067mのこの山は、長野県と岐阜県との県境にまたがる複式火山の独立峰で、古くから山そのものをご神体とする山岳信仰の山として、信者・登山者に愛されてきた。

 とはいえ、修験道の道場でもあったこの山への崇拝登山は、道者と呼ばれる者だけが登拝を認められる、極めて限られた世界でもあった。

 道者とは、百日間の厳しい精進潔斎を経た山麓諸村落の一群の人々を指す。神の山御嶽は、修行を重ねた者のみが立ち入ることを許される霊域でもあったのだ。道者は、御嶽神社里宮の社家、武居家・滝家のもとで養成・組織され、領主木曽氏の加護の元、江戸中期まで、木曽一円にわたって組織されていた。

 御嶽山頂からの眺望は、西方浄土へと続く路であり、己の祖へとつながる路でもある。神の山であるがゆえに、心身ともに白装束でなくては踏み入れてはならない。とはいえ、それを限られ道者だけのものではなく一般にも開放して欲しい、という気運が、覚明行者そして、普寛行者によって推し進められ、重精進から、軽精進へ、さらには水行のみで登拝を許されることにまで軽減されることになる。

 御嶽の神格が崩れたかとも思える開放ではあったが、これにより、霊峰御嶽は木曽一円の人々の山から、日本中の人々の山へと拡がっていった。登拝者が急増していったことは言うまでもない。後に御嶽山を崇拝し、集団で登拝する講社が次々と生まれていった。

 山麓の集落では、道者たちが先導の役割を担い、登山者の宿も増えていった。また、登山者に代わって荷を上げる「強力(ごうりき)」と呼ばれる者たちも数多く生まれたのである。

 ”御嶽登頂=自己の夢の実現” という機運も生まれ、吉原の女郎が代参を頼んでいたという話も有名な史実である。

 明治維新の神仏分離令により、御嶽神社は御嶽山の象徴として位置付けられ、たくさんの講社は教派新道の道を歩むことになる。しかしながら、形態は変わっても、御嶽信仰は現在まで生きつづけている。

 白装束に身をまとい、途中途中の行場で行を積みながら頂上を目指す者たち、中腹までマイカーで行き、日帰り登頂をする者たち、霊峰御嶽は、万人を受け入れる山へと生まれ変わった。

 御嶽山への木曽からの登山口は、王滝口黒沢口・開田口の三つのコースがある。

 

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